ひろやす/伊藤(vnnc8158) 2025-08-21 23:19:54 |
データライブラリの新着情報をお知らせします。 『駅名来歴事典 国鉄・JR・第三セクター編』補遺データ」 JTBパブリッシングから2022年11月21日に刊行された書『駅名来歴事典 国鉄・JR・第三セクター編』について、著者の石野哲さんが補遺データをご提供下さっていますが、この度、6回目となるデータ更新がありました。 Web表示用に加えて、印刷用としてB5判・A4判のPDFファイルもあります。 どなたでも利用できますので、お知り合いの方にもご紹介いただき、用途に応じてご利用ください。 なお、石野さんからは、更新データに関する事柄について、次の通りいただいていますのでお知らせします。 今回6回目の補遺には、今年2025.02.19に、益田彰久さんから小生にお知らせいただいた、八高線の幻の駅の情報が入っています。 今までどこでも言及されたことのないと思われる新事実です。 だいぶ時間が経ってしまいましたが、遅まきながら、今回公開いたします。 益田さんが、昨年『多摩の鉄道史X』を読んで気付いたとのことです。 「多摩地域史研究会第32回大会発表要旨」となっています。 補遺は、 八高線 南昭和(仮乗降場)みなみしょうわ1945(S20).02.15木負 旅客(定期券所持者に限る)<昭和飛行機通勤者のために開設>。小宮2.9+1.9<実距離>拝島。1945(S20).08.24の八高線多摩川鉄橋正面衝突事故の上り列車最後尾に、南昭和(仮乗降場)から乗った通学定期所持の女学生(当時12歳)の証言があり、この日までは確実に存在した〔『多摩の鉄道史X』(2024.06.23)p24〕 とまとめましたが、圧縮して書いたので、以下補足します。 昭和飛行機は、青梅電気鉄道昭和前駅の北側の、現昭和飛行機工業株式会社のことです。 同社は1937(S12).06.05設立。 翌1938(S13).03より、東京製作所(東京府北多摩郡昭和村大字田中。現東京都昭島市代官山3丁目)にて、航空機の製造を開始。 https://www.showa-aircraft.co.jp/company/history/ 昭和前駅は、この昭和飛行機の正門前に、1938(S13).01.25仮停留場として開業し、同年1938(S13).12.25正駅に格上げとなっています。 1944(S19).04.01 青梅電気鉄道を買収し、国鉄青梅線となる 1959(S34).10.01 昭和前を現駅名の昭島に改称 南昭和(仮乗降場)は、主にこの昭和飛行機の工場への通勤者のため、大戦末期の1945(S20).02.15に設置されたもので、『多摩の鉄道史X』には、翌日昭和20.02.16付の毎日新聞の記事全文の画像が載っています(下記は原文のまま。「仮乗降車場」となっています。記事全文)。 「南昭和」仮乗降車場新設 東鉄八王子管理部では八高沿線工員の通勤至便を図り小宮−拝島間に『南昭和』仮乗降車場を新設、十五日から業務を開始した、南昭和乗降取扱ひは定期券所持者に限り(学生定期も可)認め同時に時刻を改正し旅客車は次の通り上下一日五本停車する ◇八王子発六時四十三分(南昭和七時二分)十八時十八分(同十八時卅二分) ◇南昭和発六時四十九分(八王子着七時五分)七時十六分発(七時卅分)十八時十九分発(十八時卅五分) 場所は、八高線の小宮駅から北上し、多摩川鉄橋を越え、鉄橋と拝島とのほぼ中間地点、東側に龍田寺があるところ(龍田寺南側の東西の道が八高線と交わる)の踏切(檜の木踏切7.981q)の、南西側に簡易なホームを新設したもので、八王子起点約8.0q(7.981qマイナス少々)地点です(小宮〜拝島間は4.8qで、結構離れている)。 https://hbc.blog.jp/HachikoLine_7k981.html に、[JR八高線]檜の木踏切(7k981m) の写真が載っています。 国鉄時代の最後まで、本社設定でない仮乗降場は、いっさい全国版時刻表には掲載されませんでしたが、この南昭和(仮乗降場)も、当時の時刻表に載っていません。 ここに駅があると、青梅電気鉄道昭和前駅まで直線で約0.7qと、八王子方面から拝島乗換でのアクセスより、断然便利です。 現在では、踏切の南西約0.5qに昭島市役所があり、駅が現存していればとも思ってしまいます。 JTB時刻表索引地図で、駅が◎となったかもと妄想しました。 拝島駅の住所も昭島市ですが、駅構内の北側は福生市。 ちょうど、横浜市と鎌倉市にまたがる大船駅みたいな立地です(駅の住所は鎌倉市)。 1954(S29).04.01 昭和町+拝島村=昭島市が誕生。人口36,482人。 昭島市のHPによれば、現市域は、戦時体制で航空機を中心とする軍需工場と陸軍施設が相次いで建設される前は、一面の桑畑だった(蚕種の生産を中心とする全国屈指ともいえる養蚕村)とのことです。 小生が初めて八高線を走破した1968(昭和43)年頃、沿線は桑畑だらけでした。今や、まったく桑畑はありませんよね。 補遺後半は、『多摩の鉄道史X』の筆者が発掘した新情報です。 8/15の敗戦とともに無くなったと筆者が思い込んでいた南昭和(仮乗降場)が、1945(S20).08.24の八高線多摩川鉄橋正面衝突事故の日に、実際に南昭和(仮乗降場)から乗車した人が居たという証言です。 ※正面衝突したのは、下り3列車と、上り6列車 つまり、この日までは確実に、南昭和(仮乗降場)が存在していたのです。 証言した女学生(当時12歳。2012年聞き取り時79歳)は、南昭和(仮乗降場)近辺に住んでいて、八王子の女学校に通う3、4人のひとりでした。 『事故の日、大雨が続いていたため、ほかの学友は休んだが、ひとりで南昭和(仮乗降場)から、七時十六分発(ダイヤ上の時刻。正確な当日の時刻は不明)の上り列車の最後尾に乗車し、八王子の学校に向かった。ガタガタとして列車は停まった。「もう列車は八王子に行かないよ。俺の後をついて来いとおじさんに言われ、線路を歩いて自宅に帰った。』との証言で、なんと事故当時、列車が正面衝突したとは気付かなかったというのです。 残念ながら、『多摩の鉄道史X』には、事故のあと、南昭和(仮乗降場)がどうなったかは、書いてありません。 是非、女学生の方に聞いてもらいたかったことがらです。 石野 哲 鉄道フォーラム・マネジャー 伊藤 博康 |