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No.869 (Re:866) 【名古屋レール・アーカイブス】NRA NEWS No.6 特集:白井 昭の一口メモ
ひろやす/伊藤(vnnc8158) 2009-11-25 18:44:04
非営利活動法人 名古屋レール・アーカイブス         2009年10月
 http://nagoyarail-acv.or.jp/nra/
   NRA NEWS No.6



特集:白井 昭の一口メモ

1 当地方の水撒き電車
 昭和30年代の前半までは、どの町も通りは白煙もうもう、水撒き車は必須だった。 名古屋市電は水1〜11(茶色)と特大の水21 (黄色と緑)が全線を巡ったが、戦中に電気品をトロバスに取られ、戦後の可働車は6両で、全て片モーターであった(除く水21)。
 名鉄ではミ1、2が岐阜、3が一宮(起線)、4が岡崎を走り、名古屋と同型の6トン車で、水撒き自動車より大型だった。ミ3は大きなラジアル台車付き、ミ4がドイツモーター1個のほかは2個モーターだった。 神都電車は、明治41年ドイツ製の貨物電車に木の水槽を載せ、撒水電車とした。ドイツ生まれの車体はグレーに青色の模様でシャレていたが、戦後、撒水自動車に代わり電車は元に戻った。電車のない町は水撒き自動車だが、豊橋は市電があってもずっと撒水自動車だった。
 水撒き電車には、どの町にも側線と水槽がある「水飲み場」があった。名古屋の長塀町など人の心の中にだけに生きており、普通の電車以 上に懐かしい存在である。

2 近鉄電車の受難
 昭和34年秋、伊勢湾台風の被害を広軌で復旧した近鉄名古屋線は、速成で工事を進め、名古屋口の広軌運転を始めた。しかし、水没車が多く、広軌可動車が少なかったので、電車は超満員となり。写真の6331形はガラス、よろい戸を破られている。
 パンタを降ろしている6301形4Mはシュレーリンの新台車に代えているが、軌道の不整により、三菱S514の巨大パンタは全部破損し、推進されている。
 近鉄米野駅の右には国鉄笹島駅の客車群が見える。6301の4Mはその後、中2両のパンタを降ろして運転した。ガラスの割れた6331の方は、小形の三菱S710パンタで、破損は免れた。

3 昭和19年の鉄道写真
 昭和18年、豊川線が飯田線になると、ED19とED22形電気機関車が入ってきた。写真は昭和19年4月29日に撮った豊橋機関区のED222で、人物は友人で鉄道ファンだった故塚本氏である。
 このED22は、アメリカ式にバンパーの押し棒入換用の凹み(ボーリングポット)が珍しく、日本では8500形DLのみ、ED22も後にはなくなった。
 昭和19年の鉄道写真は珍しいが、機関区へ日産していた我々への信用と腕章が有効だったように思う。
 
4 戦時中のED19添乗
 飯田線に入線したED19形機関車は、EF機なみに高速度遮断器付き、ブロワ、CP各2基を備え、日本のEF機の設計の基になった。
 すぐに添乗を申し込んだ結果、昭和19年3月末に実現した。当日は朝、直行貨物で山へ、勾配線も楽々登り快適。
 途中、長い退避(三河川合?)ではブロワを止めて、MGの32Vはアメリカ式で、バッテリーフロートに関係するなどを、ベテランの梶浦機関士(東鉄出身)より教えて戴いた。
 当時、豊橋航空隊は1式陸攻に代わり、「銀河」が発着し戦局は悲愴に。友人は次々と出征したが、添乗の日は桜満開の晴天で、車窓に花びらが入り、心が安らいだ。
 鉄道のご迷惑を考え、さすがに写真はとれませんでした。

5 昭和19年の名古屋工場
 昭和19年11月9日、私は鉄道省名古屋工場などを見学した。戦局は最悪だったが、見学は許可された。まず、笹島の検車区では、名ナコのオハ35などが並んでいた。これらは東海道(トカホセ)、関西、武豊線用で、国内最高レベルの客車であり、全国の他線区はほとんど真っ黒な木造のナハであった。ほかにナハ12725、 オハニ25827などが居り、スハ32553から32555の3両が並び番でいた。
 ここでの注目は休車のキサハ43500で、青白の車体は真白になっていたが、暗い戦時色の中で夢のように見えた。
 名古屋機関区は、矩形庫に転車台があり、C53、D50、C57、C59が並んでいた。2445(中)とD50333が煙を上げていたが、鉄道趣味によれば、後者は昭和10年から中津川の配属であった。
 名古屋工場は、省の客貨車の定検に全力のほか、私鉄の工事が多く入り、すでに豊橋市電の締め替えなどをやった他、当日は藤相線の木造客車の締め替えをやっていた。
 この頃の中央線は相変わらずD50、D51に真っ黒なナハが主力だったが、大曽根の三菱輸送のため、ラッシュ時には木造3軸スロハ改のスハ18230やもと佐久鉄道のホハ2380など珍車を増結し、長大な編成で走っていた。その歴史を考えると、興味深かったが、実際は戦争でそれどころではなかった。

6 なつかしのサハユニフ
 三信鉄道が全通すると、昭和12年より三信のデ301形クロスシート車に引かれて伊那電のサハユニフ110が豊橋に現れるようになった。
 大正15年、自家製車体のサハフ312として生まれ、昭和12年、豊橋直通用にサハユニフ110に改造された。この110の客室は16人と狭いのになぜかWCが2箇所あり(ひとつは逓信省)、電灯は15個直列で1500V直通に備えている(伊那電は1200V)。
 豊橋には伊那電のクロス車サハフ400は入らず、もと600Vのサハニフ220が時折直通した(サハユニフの代車?)、しかし、サハユニフは常連であり、懐かしい思い出である。 伊奈電には豊橋へ来ないサハユニフ100もあったが、大正14年新造後、当分は青帯付きの名物サロハユニフであった。

7 昭和18年の新車、ワキ700
 昭和18年、航空エンジン等専用のワキ700が 新造され、豊橋と横須賀を往復するようになった。ワキ717は、昭和18年1月、日本車輌製、第2海軍航空隊専用、田浦駅常備、豊橋海軍航空隊のエンジン輸送にあたった。 両開き戸の中にはクレーンがあり、トラックへ積み替えできた。 当時、豊橋の西駅は8620やナハ22000など二俣線が占めていたが、その近くに扱い所を設けた。海軍機ははじめのゼロ戦、1式陸攻から銀河、雷電とエンジン故障が増え、終わりを告げた。
 当時写真はだめで、故牧野(俊介)氏並に画を描いた。この図(下)は軍秘、空襲、伊勢湾台風を超えて今に生き残った。

8 日本初のPCCは名古屋から
 昭和25年、名古屋のトロリーバス線に新車2両がやってきて、早速営業を始めた。1号車はトレーラートロバスで、2号車は単車であった。
 東芝が今後を目指し試作したもので、在来の10000形、12000形に比べ、乗り心地も良く、全く高速、高加速であった。御器所〜今池〜名駅は私の通勤ルートで、休日も何回も試乗した。私は、PCCトロバスと呼んでいたが、2両の電気品は、同系でPCCカー用の整流子制御器とGEの高速、重ね巻きモーターを備えていた。トレーラートロバスの客室先頭からは整流子の回るのが見えた。
 電気雑誌に発表されたのに、電鉄技術者の関心は低く、PCCは名前のみで実体を知らない人が多かった。それよりも故障電車を直すほうが先決だった。
 今、サンフランシスコにPCCと大阪(神戸)市電などが同居しているが、日本車は実用されない。日本車はあまりにのろく、SFの乗用車と共存できない。
 日本でPCCが普及しなかったのは足踏み運転の出来るドライバーがいなかったのと、高性能過ぎたためと思う。東芝は時期尚早であった。
 なお、現在のサンフランシスコでは、トレーラートロバスが名鉄バスと同色にZero Emission Vehicle と書いて、急坂で車と並走する猛パワーで走っている。

9 オハ35のドアー窓
 戦前の客車は、長時間座って行くものとして、入口ドアの窓は客室と揃え低かったが、戦中デッキにも人が乗るため、窓を高上げした。大井川には2種混在している。
 客室仕切り戸に「三等」と書いたオハ35系が1両だけある。本来2等の仕切りはスリガラスに透明に「二等」と抜いてあった。3等は全透明で室内は丸見えであった。これを知らない映画監督が書かせ、そのままになっている。

10 牧野氏の鉄道画をNRAで保管
 2009年2月、レールファンの牧野俊介氏が90歳で亡くなられた。
 15年ほど前、同氏から私に鉄道画50枚ほどの保管を頼まれ、お断りしたが、再度、貴方しかいないと言われ、遂に預かってしまった。
 同氏の鉄道写真は有名だが、この画は戦中、写真に出来なかった光景も含むとのことで、多くの有力者に断られ。困っているところに、NRAの計画が始まり、管理していただくことになった。NRAは時代の求めるものであり、牧野氏の行動も先見の明があった。

11 岡崎鉄道馬車の歌
 私が親から聞いた鉄道馬車の歌について、後世に伝えたい。
 「鉄道馬車が走るよ 中学校を通り ステンショのほうへ 鉄道馬車は早いな (以下不明)」
 メロディーは、当時の語り歌と同じ単調なもので歌いやすく、明治32年開通以来よく流行ったという。
 鉄道会社のCMかは分らないが、岡崎駅が町から離れたため生まれた馬車鉄道は、岡崎では文明の利器として市民の誇りであり、鉄道唱歌の「忘るな汽車の恩」と同じ感謝の心も垣間見える歌である。馬車鉄道でなく、「鉄道馬車」を主役としているのも市民に身近である。

12 ローカル線の定番 ホハユ3150
 戦前の小海線、二俣線など鉄道支線ではホハニ、ホハユなどが見られた。これらはナハやホハ12000形3等車より古く、明治中期の風格を残すものは多かった。
 高山本線ではホハ12000を主力に、ナロハ、ホハユがついていた。
・高山線のホハユが二俣線へ
 戦前の二俣線は、ナハ22000×2両とホハニ4050など1両で走っていたが、昭和19年には豊川の工員が増え、名タヤのホハユ3163を名マタへ転属して4両化した。
 写真が撮れず画(図3)にしたが、一部をネズミに食われた。
・官鉄形ボギー車
 ホハユ3150とホハニ4050は、共に明治30年代の官鉄標準ボギー車で作業局形とも呼んで、全国に分布していた。
 写真がないので、デッキの唐草の美が見えず、残念である。こんな客車でも86に引かれて本線(豊橋)を100kmで走った。その機関士は、すぐ出征するという若い機関士であった。
 この両形式は、明治30年代に官鉄新橋工場で自製され、ホハやホロハから改造されたものも多い。全長16m、色はオハ31等の茶色に対し、ホハ12000と共に、真っ黒で、郵便の赤白マークが目立った。3163のボギーは、欧州系軸バネだがイコライザーのものもあった。
・空制と暖房
 これらの明治客車は、初めの真空ブレーキから昭和初年、ウエスチングハウスのP三動弁により空制され、さらにA弁化されたが、小支線用にP弁で残った車には、番号の上に白の菱形マークを付けた。
 二俣、高山線とも蒸気暖房が設備され、ストーブはなかったが、戦中は暖房どころではなかった。この3163のスケッチを見ると、当時を思い出します。
・古典客車のその後
 これらの明治の古典客車は私鉄に適した大きさで、戦前から戦後にかけ、私鉄に払い下げられ、輸送を助けた。特にホハニ、ホニ等は多く売却された。
 高山線のホハユ3150のうち1両は、戦後すぐ富山地鉄へ行き、もとの姿で電車に引かれた。
 他の各社でも天井の肋骨から霊柩車と呼ばれたが(私にはお宝)、後には、名鉄2140等のように車体を新造した。しかし、名鉄の2090形(ホニ5910)だけは、官鉄形の姿のまま長く使われた。
 戦前、私は彼らを鉄路の長老として尊敬したが、今や資料も研究も少なくなりつつあるのは淋しい。

13 薪ガスと木炭ガスの時代
 昭和初年、日本の鉄道に現れたガソリンカーは、忽ち全国で活躍したが、早くも昭和12年にガソリン節約、15年には全面禁止となり、開戦のもととなった。省線は減便、SL化、私鉄は多くが薪バス化した。 タクシーは木炭(炭)ガスが多く、コーライトもあったが、入手難かつ高価でトラック、バスは薪ガスが多かった、力が無く、坂では人の後押しを頼み、人力でカマのファンを回したが、燃やし方でカマの調子に大差が出るのはSLに似ていた。
 戦時、戦後の10年弱で、里山はハゲ山になった。
・薪と炭
 昔の記録には、薪焚きバスも木炭バスと書いたものもあり、今後は、燃料、ガスの種類を明示すべきである。代用燃料車(代燃車)も不正確だが、全体を呼ぶには便利である。
 私も代燃体験者としてひどい目にあったが、エンジンを痛めることもひどく、アメリカの優秀エンジンがこの間に全く老朽化した。
・代用燃料の色々
 鉄道のガソリンカーは、デッキにカマを載せた薪ガス車のほか、千葉では天然ガス(NG)も使った。
 千頭森林鉄道と井川線の全身では木炭の産地のため炭を使い、カマのGLに負わせず、専用のトレーラー(テンダー)を連結したので、最も成績が良かった。エンジンはブダとミルオーキだった。冬にはこれで焼いたサツマイモがうまく、役得だった。
 トラックではガソリンに松根油の混用もしたが、プラグの点火が悪く、火で焼いてブラシでこすった。里山の松の切り株を掘り尽くした。
 ロンドンの2階バスは、石炭をカマのトレーラーを引き、車庫でガス発生後、トレーラーを取り替えたので、高性能であった。
 名古屋の市バスは、薪ガスと電池バス(E1〜E60位)があり、Eバスは町に吊掛音を響かせて走り、のろいが薪バスのようにウヤ(スタンド)はなかった。
・代用車時代の終わり
 戦後、先ず米軍用改造バス(ガソリン車)が各市に入ったが、燃料が安いなどから薪ガスなども長く使われ、昭和27年頃完全にガソリン、ディーゼル化された。この間国鉄キハは天然ガスも使った。
 主題から外れるが、戦前キハ42000など夜の排気は、青色に明るく輝き、ゼロ戦も同様で、今も思い出に強く残っているので、語り部とし て伝えておきたい。

前号の訂正
 前号の「一口メモ」のうち、「8 終戦前後の名古屋日記」の一部を次のように訂正します。
 【場所】p8左側下から5〜4行目 
  (誤) 米軍のP51が京都御所の前へ離着陸する
  (正) 京都御所の前へ米軍の軍用機が発着する

伊藤注:写真入りの文章は、NRAのホームページにてPDFファイルでご覧いただけます。


名誉会員 渡邉 肇さん を悼む
 内山 知之
 当会名誉会員であり、任意団体での当会設立時より多大な資料寄贈等ご尽力をいただきました渡邉肇さんが平成21年4月17日にご逝去されました。享年86でした。渡邉さんはいろいろな会の例会で若い会員にも優しく接して下さり、本当に趣味界の良き指導者であったと思います。



NRA NEWS No.6 2009.11.1
編集及び発行
NPO法人名古屋レール・アーカイブス
〒453-0012 名古屋市中村区井深町1番1号
新名古屋センタービル 本陣街 B1224号
撮影日:
撮影場所:
キャプション: 牧野俊介氏が描かれた画の一部
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