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梁山泊会所告示 号外(2015.8.15付)
 ※2015.8.23追記
 ※2015.8.26追記
 ※2015.8.30追記

新補遺データ 舞鶴線 天台(仮乗降場)・上安(仮乗降場)  片町線 東住道(仮乗降場)について

『停車場変遷大事典 国鉄・JR編』(1998.10.1)の訂正表である、鉄道フォーラム掲載の「梁山泊会所告示」をご覧になった池田和政さんから、「ここにも載っていない駅が存在した。記録しておかないと、存在自体が無かったことにされてしまう。どんな形でもよいので、公開された記録として残してもらいたい。詳しくは会ってお話したい」とのTELが先日あり、当日夜、初めてお会いしました。
池田さんは、JTBパブリッシング刊の『国鉄乗車券類大事典』(2004.1)の著者として、お名前は存じておりました。86歳とのことで、小生より、はたちも大先輩になります。
実は、お聞きした件(下記)は、2003.10.24に、同様のメモを、『国鉄乗車券類大事典』担当編集者経由でいただいており、そのまんまとなっていたものでした。池田さんには、大変失礼をいたしまして、申し訳ございませんでした。


●320頁 線番81−1 舞鶴線 駅番3143と3144の間に追加
天台(仮乗降場)
S21(1946)0716営業開始
   西舞鶴東舞鶴間に次の仮乗降場を設置し、昭和21年7月16日から外地引揚邦人並びに復員者の取扱を開始する
   綾部起点22.4キロ<西舞鶴2.9+4.0東舞鶴ということになる>
   【S21.07.15大達666号(大鉄局報5454号)】
S22(1947)1212廃止
   昭和21年7月15日大達第666号「天台仮乗降場」 使用開始を廃止する
   【S22.12.12大達(号不明)】

●356頁 線番97−1 片町線 駅番3509を全面修正
東住道(仮乗降場)
S20(1945)0501営業開始
   片町線野崎住道間仮乗降場新設の件
   取扱 旅客 ただし定期券所持のものに限る
   旅客営業粁を設定せず 外方駅運賃を収受する
   住道駅長管理とす
   【S20.04.12大達63号(大鉄局報5069号)】
S22(1947)0421廃止
   昭和20年4月大達63号「片町線野崎住道間仮乗降場「東住道仮乗降場」 昭和22年4月20日限り廃止する
   【S22.4.16大達(号不明)】

※これらは、池田和政さんが、大阪交通科学館所蔵の大鉄局報を閲覧し、メモした由

●この話を聞いて、『RailMagazine』2010年3月号(通巻318号)を見て、自分が、以下のメモを残していたのを思い出しました。
※75頁:終戦直後、舞鶴への引揚者収容の寮最寄りの、舞鶴線西舞鶴−東舞鶴間の白鳥峠(トンネルあり)西側に、西舞鶴寄りから、「上安」「天台」の2つの仮設停車場を設置し、臨時列車で引揚者を輸送した
※77頁:舞鶴全体の地図「舞鶴地方引揚援護局近傍図」を掲載。西舞鶴−東舞鶴間の線路の南側に、「上安寮跡」「天台寮跡」、そのほかの寮の記載あり

●こうすると、池田さんにご教示いただいた「天台」のほか、「上安」という仮乗降場も実在したようです。

●念のため、インターネットにて「舞鶴 引揚援護局」で検索したところ、『舞鶴地方引揚援護局史』というのが引っかかりました。さっそく、横浜中央図書館で借り出し、読んでみました。
この書籍は1961(S36).3.1、厚生省引揚援護局から非売品として発行されたもので、編者は旧舞鶴地方引揚援護局、総頁616pの黒の堅い表紙の本でした。
舞鶴地方引揚援護局はS20.11.24設置(実業務はS21.1やっと開始。S21.2.13開庁式)され、S33.11.15閉庁しているので、閉庁後に刊行されたものです。なお、S25函館、佐世保両引揚援護局の閉庁以後は、この舞鶴が唯一の引揚援護局でした。

また、http://www.geocities.jp/k_saito_site/hikiage3.html の個人HPに、この書籍と、舞鶴引揚関連箇所が、写真付で紹介されています。

『舞鶴地方引揚援護局史』には、「天台仮乗降場」のことは出てきませんが、「上安」のことが「上安仮駅」として明確に載っていました。
以下、関係ある箇所を原文のまま引用します(< >内は私が注として追記したもの)。

※巻頭:「舞鶴地方引揚援護局近傍図」折り込み<上記『RailMagazine』77頁紹介のもの>と、写真32ページ分

※写真4ページ目:上陸桟橋
西舞鶴への上陸は昭和22年2月でおわり、その後はもつぱら東舞鶴地区<平地区の、もと平海兵団の兵舎を、進駐軍庁舎、援護局本庁舎、復員部庁舎、検疫所、引揚者の寮(第二寮〜第五寮の4棟で収容力は5000名。ちなみに上安寮13棟の収容力は4000名:118頁)とした(昭和27年までいた進駐アメリカ軍は平キャンプと呼んでいた):写真1ページ目><送出 平寮−東舞鶴駅間は舟艇、自動車を併用輸送する。:64頁>に移つた。

※11頁:開局までの経過
朝鮮人の釜山への送還第一船雲仙丸が、<S20>九月十六日西舞鶴を出港し、また釜山からの引揚第一船雲仙丸が陸軍部隊を乗せて十月七日西舞鶴に入港し、送還・引揚共に開始されていた<この後のS20.11.24に、舞鶴地方引揚援護局設置>

※13頁:<西舞鶴付近から、東舞鶴北方の平地区に、上陸地・寮が移転したことにより>昭和二十二年五月天台寮、同年六月上安寮・・・を相ついで閉止

※21頁:南鮮引揚は、朝鮮人送還の帰路に行なわれたものであつて、<S21>二、三、四月の各月各一隻の入港があつた。中国引揚は、四月上海から五隻、六、七月葫盧島<コロ島・大連の北西の中国本土近傍の島。満洲引揚者>から四十三隻の入港があり、各船二千五百乃至<ないし>三千名を乗せていたのと、連日入港し、はなはだしいときは一日四隻の入港があり業務は繁忙をきわめた。これらの引揚者は西舞鶴埠頭に揚陸し、鉄道輸送により上安寮に収容し、上陸後二十四時間以内<最初期のみ。進駐軍指令による。その後、6泊、4泊、3泊を経て、4泊標準となった:120頁:配宿と宿泊日数>に処理帰郷させた。

※59〜60頁:上安時代の業務実施要領<西舞鶴揚陸時代>
昭和二十一年四月、引揚者援護実施要領を定め、同月の上海引揚からこれを実施した。この実施要領の要旨は
(イ)一般邦人は揚陸に先き立ち、落着先方面別に編成換えする。
(ロ)揚陸地点で通関事務と検疫の一部を行なう。
(ハ)約二時間間隔の列車(七五〇名塔載<搭載>)により上安寮に送る。
(ニ)上安寮では逐次残りの検疫業務、援護業務、復員業務を実施する。
(ホ)翌日朝より送出、帰郷させる。
第一三表
輸送 第一日
列車により上安寮へ  一列車(無蓋<貨車>十五輛編成)七五〇名
送出 第二日
一、上安寮−西舞鶴駅間は徒歩
・・・
五、西舞鶴駅に収容力一千名の待合所設置、湯茶接待
<注:復員は、送還と違って、上陸後(または上陸前)ただちに検疫が必要。西舞鶴揚陸地点が狭かったため、西舞鶴埠頭倉庫で携行荷物の税関検査とDDT粉末の撒布消毒をしたのみで、人間の検疫(検診、検疫入浴、予防接種、種痘、着衣身体のDDT撒布消毒)は上安寮にて実施する状況<233頁:上安時代の検疫業務要領より>となり、そんな遠距離でないにもかかわらず、列車で上安寮に直送したものと思われます。よって、検疫が済んだのちの帰郷に際しては、上安寮−西舞鶴駅間は徒歩での移動となっています>

※61頁:第三図 業務場配置図(上安寮)
<13棟の寮と、炊事棟、検疫所、倉庫、医療課、事務所あり。敷地北側に並行して東西に鉄道線路の印。敷地北西端の、鉄道線路を越えた北側に細長い長方形が描かれ、プラットホームと記載あり(駅名無し)>

※117〜118頁:引揚者の収容施設は窮屈な感を与えないためと抑留<収容所暮らし>の悪夢を想起させないため「収容」という言葉を避け、寮と称していた。上安寮と森寮は旧海軍の工員<徴用工>宿舎であつた

※257〜258頁:朝鮮人の送還業務
<S21>一月十二日出港の長鯨丸送還者より上安寮<最寄駅西舞鶴>に収容して業務を行なつた。さらに三月十二日平寮<最寄駅東舞鶴>に収容所を移転し、同所において業務を行なつたのであるが、同年五月四日間宮丸の送出をもつて、一応、舞鶴からする朝鮮への送還を終止することとなつた。・・・
<全国各地から西舞鶴または東舞鶴>駅に到着したものは、当局においてその荷物とともに自動車により上安寮または平寮に輸送し、約五十名ごとの小隊に編成したうえ収容した。<出港した送還船は、1月12日から5月4日の短期間に27隻、計15272名にも及んだ>

※264頁:中国人の送還
昭和二十一年五月、<華中向け>帰国希望者八三四名を上海に向け送還することとなつた。五月九日より集合を開始し、天台寮に収容して、前述朝鮮人送還業務と同様の要領により処理したが、・・・集合人員は一二一名に過ぎなかつた。<出港した送還船は、5月14日と5月16日の2隻のみ>

※389〜391頁:第一一七表 土地建物一覧表
上安寮 引揚者用(一時朝鮮人)
  第一 当初−22.11.18
  第二 当初−22.11.18
  第三 当初−22.6.20
天台寮 中国人用 朝鮮人用
  第一 当初−22.4.10
  第二 当初−22.4.10
  第三 当初−21.11

※393頁:第十五図 施設位置要図<巻頭の図と同じ>

※397頁:第二十一図 上安寮<「上安仮駅」の記載あり>

※398頁:第二十二図 天台寮(第一宿舎)<駅の記載無し>
<4棟の寮と、食堂・炊事棟、病舎・洗濯・浴場、便所、舎宅の記載あり>
第二、第三宿舎構内建造物は第一宿舎と全く同一である。
第二、第三宿舎は第一宿舎の西南に隣りしている。

●上記のことを池田さんに報告したところ、この期間の大鉄局報(本省の鉄道公報も)は、注意深くすべて調査したが、「天台仮乗降場」だけで、「上安仮乗降場」の記載は無かった。まったくミステリーだ。梅小路で閲覧を再開したら、調べ直す必要がある、とのご意見でした。
また、「天台」「上安」は、「てんだい」「うえやす」と読むとのことです。
「天台」は、府道との踏切のところに乗降場があった。これは池田さんが、実際に「天台」を利用した方に聞いて、確認されたとのことです。
<注:398頁:第二十二図を見ると、天台寮(第一宿舎)の敷地北側に接して府道が描かれ、「←西舞鶴」、「白取<白鳥>峠→」と記載されています。393頁:第十五図を見ると、この府道は白鳥峠側で舞鶴線と交わっていますので、ここに乗降場があったと思われます>

●ちょうど、鉄道ピクトリアル2015年9月号(通巻907号)【特集 鉄道の戦後70年】の、10〜23頁(山田亮『鉄道の時代 戦後70年』)と、32〜39頁(宮川浩一『南風崎駅、道ノ尾駅をめぐって』)とに、「復員引揚輸送列車」のことが出ていました。ただし、舞鶴線の仮乗降場については記載無しです。

※33頁:1945(昭和20)年8月15日の終戦により、海外にいた約660万人にも上る日本の軍人・軍属、および一般邦人は日本本土へ帰国することになった。筆者はこの分野の素人であるが、文献などで調べたところでは、日本国内部隊の撤収、および海外にいた軍人・軍属の帰国が「復員」、海外にいた一般邦人の帰国、および戦争中に強制連行されていた外国人の本国への帰還が「引揚」と呼ばれるとのことである。


横浜市 石野 哲
2015.8.15(土)



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